亜細亜光速紀行 〜南方見聞録                  HOME


Contents

  序文〜プロローグ

  見聞録 その壱  《タイ-カンボジア-タイ-ミャンマー-タイ-ラオス》  炸裂の巻
  見聞録 その弐  《タイ-ベトナム-タイ-ミャンマー-タイ-マレーシア》  激動の巻
  見聞録 その参  《台湾-スリランカ-ブルネイ-シンガポール-マレーシア》  渾身の巻
  見聞録 その四  《ネパール--タイ-バングラデシュ-タイ-ベトナム》  衝撃の巻
  見聞録 その伍  《韓国-香港-タイ-マレーシア》  驚愕の巻

  見聞録 その六  《フィリピン-カンボジア--タイ-マレーシア》  怒涛の巻
  見聞録 番外編@  《ああ釜山港》  哀愁の巻
  見聞録 番外編A  《サクラメント-サンフランシスコ先祖を尋ねて三千里》  慟哭の巻

  見聞録 番外編B  《インド-チェンナイ・バンガロール》  唖然の巻



1) 序文〜プロローグ


 俺は日本で16年間ずっと営業マンをしていた。立場上は有名雑誌の「編集長様」であったが、その実は営業所の売上げ・利益を死んでも達成する事と前年比伸びを誓約する「特攻隊長」であった。メンバーの業績が悪いときは、自ら街をローラー営業し飛び込みで広告をとってくる。ヒトはそれを「ドブ板営業」と呼んだ。設定された売上げ目標へのプレッシャー、未達成に終わった時上司からツメられる恐怖、地方に飛ばされた同僚への憐れみ、うんざりするくらい面倒なクライアント対応、自腹を切る接待・・・・そんな毎日が連続し、自律神経が不協和音を奏で、知らず知らずのうちに自分の中に「何か」が鬱積していった。30を超えたのに自分の中で自分が定まらない、そんな不安を感じていた。
 そんな時、女房の「気晴らしに一人旅にでも出かけたら」という一言が俺の内部に潜む獰猛な「虎」を呼び起こしたのである。考えたら自分の今の取材フィールドは狭い大阪の街の中だけだ。ボケとツッコミにいくら磨きがかかってもそれ以上の視野を広げることは不可能だ。日本を飛び出て、何もかもが完成していない「アジア」の街をふらついてみよう、そして自分の体内時計をあるべき速度にリセットし、混沌としたエネルギーを浴びてこよう。思い立って計6回のショック療法的アジア放浪が成り立った。もっと若いときは香港とかシンガポールへのショッピングツアーとかバリやプーケットのビーチでホテルから一歩も出ないでゆったり過ごすとか、そんな経験はあった。今回は全然そんなのじゃなく、ともかくもっとエネルギッシュで激しい国に降り立ち、路地裏をふらつき、目がギラついた奴らと触れ合い、正体不明のモノも食い、とんでもないものを見聞してみたいとの衝動が起こったのである。


 俺は限られた時間で、出来る限りの国々を訪れるという根拠のない目標を自分に課した。つまり一都市基本1泊だけ、最大でも2泊だけという「四国八十八ケ所巡り」のようにストイックな旅だ。いや根拠はある。普通の休日に、涙がでるくらい苦労して捻出した有給休暇を足しても1回当たりの日程はわずか1週間ほど。本来は憧れた「バス・鉄道での移動」はどうしても叶わない。女房に隠れて必死に貯めこんだ貯金とにらめっこで飛行機を乗り継ぎ、短い日程で最大限の国々を訪れることのできる行程を考えた。「飛行機」は邪道だとおっしゃる読者もいらっしゃるであろう。こんな旅に価値を感じない人もいるだろう。しかし誰もがしないような馬鹿げた旅を敢えてしてみたかった。短期間で訪問箇所のギネス?を追求するのだ。しかもこの日数で味わえるだけのカルチャーショックを味わい、取材を通じてすべて脳裏に焼き付けるという自分の記憶力と体力に挑戦する上で、これはこれでチャレンジする価値があろうと確信したわけである。
 もうひとつの根拠は、悲しくも俺の体に染み付いた「営業マン」の習性と本能である。通常営業マンは1日という限られた時間の中でどれだけ多くの顧客を回れるか(ビジネスチャンスをより多く得るための生産性向上)が求められる。訪問者数の多い営業マンは業績も高いのである。会社では恒例の「訪問社数コンテスト」などが当たり前に実施されていた関係もあり、平素から分刻みの鉄道やバスの乗り継ぎ能力が自然と備わっていた。大体の時刻表であるとか、どの車両に乗れば次の乗り継ぎ階段に近いとか、今となればまったく役に立たない特殊能力を身につけレベルアップしていたのである。アジア放浪においても、この悲しい習性が遺憾なく発揮された。異なるディスティネーションに飛ぶための同日で極めて短い乗り継ぎ時間でのフライト・タイムテーブルをさも仕事に励んでるように見せかけて研究する日々が続いた。各空港の3コードも難なく覚え、難解なタイムテーブルで最高の行程が組めたときは旅に出るとき以上の快感さえ覚えたりした。気がつけばアポロとかアマデウスとか旅行会社の人間しか知らないような、都市間発着便&リアルタイム空席検索システムまで使いこなしていたわけだ。もちろん前後して仕事の業績が下降線を辿ったのは言うまでもないが。ついに夜の夢の中にまでタイムテーブルが登場してくるようになった。。
 そうやって、俺は自分の組んだフライトスケジュールを手に格安券大手の某旅行会社を訪れ、そこで世話になりまくる担当のN氏との出会いがあったわけである。N氏は最初その無理な行程に呆れ、首を何回も傾げ、ついには苦笑したものの俺の旅の真の目的も根堀り葉堀り聞かず、「職人」として航空会社とやりとりしてくれた。検索端末に向かう彼の目はいつしか狂気が宿り、カウンターで見守る俺の耳に荒い息遣いまで聞こえてきた。その日以来俺はそこに日参し、彼と座席クラスとか機材によるシート配列とか、各キャリアの現在の業績・経営状況まで意見交換を行った。そうするうちにN氏もその「パズル」にはまり、俺のつくった最高の行程を上回るさらにグレートな新しい行程まで発見してくれるようにまで成長した。そういう意味では、彼のレベルを高めることに貢献できたのかも知れない。
ともかく、ともかく彼の神業のおかげで第一回目のスケジュールが完成したわけである。



2) 見聞録 その壱    ・・・2000年12月27日〜2001年1月3日
 《タイ-カンボジア-タイ-ミャンマー-タイ-ラオス》 炸裂の巻


☆行程
12月27日  KIX(関西)-BKK(バンコク)      10:00発 TG621便 
(図@)
                                
(バンコク2泊)
12月29日  BKK(バンコク)-PNH(プノンペン)  08:20発 TG696便 (図A)
                               (プノンペン1泊)
12月30日  PNH(プノンペン)-BKK(バンコク)  18:45発 TG699便 (図B)
                                (バンコク1泊)
12月31日   BKK(バンコク)-RGN(ヤンゴン)   08:40発 TG303便 (図C)
                                (ヤンゴン1泊)
1月1日    RGN(ヤンゴン)-BKK(バンコク)    10:25発 TG304便 (図D)
                                (バンコク1泊)
1月2日    BKK(バンコク)-VTE(ビエンチャン)
  08:20発 TG690便 (図E)
                                (ビエンチャン1泊)
1月3日    VTE(ビエンチャン)-BKK(バンコク) 08:20発 TG691便 (図F)
        BKK(バンコク)-KIX(関西)      14:00発 TG626便 (図G)


 当時はまだ自分がアジアに移住することになろうとは夢にも思わなかった。一生このまま勤め人として日本にいるんだろなと思っていたし、周囲の人間も皆がそうだった。この「光速旅」を思い立ったのはもちろん女房のひと言のおかげだけど、それとは別に「いつかは日本を飛び出るかも・・・といった」予感を感じてだったかも知れない。ともかく会社の正月休みの前に有給を継ぎ足して日程を確保した。年末は雑誌の2月号の締め切りが重なっていたが、もうそんなことは知ったことではなかった。有能な部下に「取材にでてくるから後はすべてよろしくね!」とハートフルな言葉を残し、旅の輝かしい幕開けは世界が21世紀に突入するという絶好のタイミングで切っておとされたのである。
 家を出がけに女房にはじめて日程表の控えを渡した。実は何も言ってなかったのである。女房はこの日程を見て何も言わなかった。ホントは何かリアクションが欲しかったのだが。憐れむような目をするだけだった。

BANGKOK #1  27/Dec/2000
 関西発TG621便。それが光速旅の記念すべきファーストフライトだった。タイ・エアウェイズはバンコクをハブにしてアジアのあらゆる国に毎日フライトを飛ばしている。しかも事前にシートリクエストまでできるし、客室乗務員の制服もなんだかなまめかしいので、俺の基本キャリアとなった。
実はこのフライトはマニラ経由便で、関空のチェックインカウンターにはダンボール箱を山ほど積んだカートを押す「ピーナ」ちゃん達と、時折怪しげな中年オヤジ達が列をつくっていた。何故だかみんな日清のシーフードヌードルの箱を持っている。きっと故国では手に入らないのだろう。座席は32A、前方の窓側だ。その横BとCはピーナ嬢2人だ。こいつらは約4時間のフライト中ずっとハイテンションでしゃべりまくっていた。歌手やダンサー資格の「興行」ビザで入国し、なのにミナミのパブなんかでホステス業で稼ぎ、数十人の家族親戚が待つホームタウンに「凱旋帰国」なんだろう。前の席では日本人の中年オヤジと若いピーナのカップルが狂おしく接吻してたりする。マニラまで待てちゅーの。機内で出されたシンビアが気圧のバックアップを受けてGOODなカンジで回ってきた。誰でも話しかける、という特技を持つ俺は気がつくとピーナ達と仲良くなり、エッチなタガログ語をいやというほど叩き込まれた。俺も負けじと変な日本語を教えてやったが、こいつらが大声でそれを絶叫するので、かなり切ない時間を過ごした。

 マニラのアキノ空港で一旦降ろされ、1時間ほどボーッと待たされて再び機上のヒトに。バンコクまでの機内はガラガラだった。なんだか眠くなったな・・・と思ったとき眼下に茶褐色のインドシナ半島が飛び込んできた。一気に俺の体内アドレナリンが噴出した。機体はすべるように夕暮れのバンコク・ドンムアン空港に降り立った。

 ねっとりした空気と甘い饐えたような匂いに包まれ、市内行きの空港バス(100B)に乗り込んだ。バスはハイウエイをぶっ飛ばしやがて両側に高層ビルが見えてきた。市内中心部は大渋滞だった。BTS(高架鉄道)が開通し、悪名高い交通渋滞は緩和されたはずなのに・・・。1時間ほどかけてシーロム通りで降りた。Wall Street Innという宿に到着。光速旅においては、飛行機での移動時間が結構ある。したがってすべての宿だけはちゃんとした中級ホテルを確保して体の休養に重きをおくことに決めていた。とは言ってもどこも1泊2〜3000円程度のもんだったけど。宿の隣には「有馬温泉」というトラディショナル・マッサージ屋があったがメニューの日本語がヘンだったので笑える。近くにはBTSのサラデーン駅、そして有名なタニヤ・パッポン通りがある。何故このエリアに寄宿したかというと、ゴーゴーバーがあるからではない(と強調したらかえって不自然か)。G-DIARYという日本語情報誌の編集部がタニヤにあり(現在はラチャダーに移転)、編集長のS氏とはかねてから会ってみたかったからである。その日は初フライトの疲れもあり、わけのわからんハンバーグ定食もどきを食って宿に帰って寝た。
 翌日、5年ぶりのバンコクでもあったのでサイアムスクエアやマーブンクロンをぶらつく。BTSが開通していてなんだか近代的になったな、と思う。何度も乗れるパスをデポジット含めて230Bで買う。迷路のようなマーブンクロン・デパートのクーポン式のフードコートで昼飯を食い、シャレでタイ語のなんちゃって名刺をつくる。肩書きは思い浮かばなかったので「Freelance Writer」にしといた。以降、このなんちゃって現地名刺を理由もなく訪問国でつくるのがクセになってしまった。ついでにキュウリパック付のフェイシャルマッサージ(150B)で悦楽の時間を過ごしご機嫌になる。
 午後にいきなり飛び込みでS氏のいるクエストメディア社へ。突然の訪問にもかかわらず、同業者ということでS氏と編集のT氏が時間を割いてくれた。アジアの雑多な話で1時間ほどしゃべる。それをきっかけにS氏とはあれこれ情報交換する間柄になり、たまにとんでもない依頼ももらうようになった。さあ、明日はカンボジアだ。早く寝よう。

PHNOM PENH #1 29/Dec/2000
 翌朝、気合いが入りすぎて4時頃目覚める。それでも6時過ぎにはドンムアン空港についてなきゃならんので、東行きのスリウォン通りでタクを拾う。運転手は狂ったような速度でハイウエイをぶっ飛ばし、あっという間に空港のDepartureに着いた。手がちょっとだけ震えてたから、きっと「ヤーバー」でもたしなんでいらっしゃったのだろう。気にしない。フライトは8:20のTG696。搭乗口のガラス窓の向こうにはひときわ小さい4列式の機材が俺を待っていた。定刻にちゃんと離陸。眼下にはしばらくBangkokの町並みが見えていたが、山脈を越え、いつしか国境をまたぐと荒れ果てた荒野にたまにあばら屋みたいなのがポツンと建ってるような光景に変わった。隣のシートには50前独身のいかにも「買いにいくんです」みたいなオタクおやじが座っていてあれこれ話しかけてくるのがウザイ。「こっちは取材なんです」とぶっきらぼうに返し、あとは寝たフリする。ガクンと着陸の衝撃がした。改修前のむすぼらしいポチェントン空港の管制塔が見えた。乗務員がWelcome to Cambodiaとアナウンスする。いよいよ光速旅の本来の入り口にたどり着いたのである。
 カンボジアやラオスでは到着空港でアライバルビザがとれる。30USDを払い軍服の入国係官にビザスタンプをもらう。荷物を担ぎ、外へ出た瞬間たくさんの運転手に取り囲まれた。みんな口々に10ドルとか20ドルとか絶叫していて、自分がセリ市のマグロのような気分がした。カンボジアでは自国通貨のリエルの信用度が低く、USDが幅をきかせている。絶叫するおっさん達をはねとばして行こうとすると、非常に気の弱そうな20歳くらいの若いやつがおれに目配せをしている。彼もタクシードライバーのようだ。たたみかけるように俺から「7ドルでえーよな?」と言うと彼がうなずいたので車に乗り込んだ。カンボジア人はやばいヤツが多いと身構えていたのだが、彼は物静かなとってもいいヤツで好感が持てた。(決して惚れてはいない)。しかも結構きれいな英語を話してくれる。名前はワンナといい若い頃の郷ひろみに瓜二つである。彼の名前はヒロミに決定した。実は4年後に彼と涙の対面をすることになるのだが、それはまた後々。ヒロミの車はスムーズにプノンペンの中心部に向かった。バイクがやたら多い。やがて中心部の目抜き通りであるモニボン通りに入る。交通規則関係なしのバイクや道路を好き勝手に横断するヒトをかきわけて車はうすよごれた町並みの中をゆっくり走る。そこには今まで見たことがない「アジア」の本当の姿があった。

 車は町のど真ん中を縦断するモニボン通りを南下した。左手にでっかいお椀を裏返したような黄色いドーム型の建物が見えた。UFOが墜落したようにも見えた。あれは何かとヒロミに尋ねると「プサー・トメイ」との答え。つまりあれはセントラルマーケットという巨大市場の建物なわけである。その周りには人がうじゃうじゃおり、まるでUFOから這い出してきたエイリアンあるいは虫みたいだ。あんぐりした口が塞がらないうちに車は宿の前に滑り込む。そう、ここがアジア高速旅の記念すべき初宿「パイリン」だ。ここはまさにプノンペンの最も賑やかなど真ん中に位置し、「大動脈」であるモニボン通りとシャルルドゴール通りという、それだけ聞いたらPARISにおるんかい?と勘違いすること請負いの大通りの南西角に建っていた。ここなら超便利だ。(残念ながら2004年に再訪した時にはこのホテルは跡形もなく消え去っていたが)、とりあえず荷物を部屋に置いてからヒロミに昼飯でもおごってやろう、ということでカウンターでチェックインしていた時、後ろから日本語のでっかい声が聞こえてくるではないか・・・。ふり向くと、色白のベトナム人らしき若い女性を従えたいかついオールバックの中年日本人男性がヒマそうにしてる宿のマネージャーと話をしている。男性の服は中国人民軍の制服を半袖にしたような変な服だったが、まぎれもなくJapaneseだ。横のベトナム女性がかなりかわいい。とりあえず「あの〜・・・」と話しかけると、「あー旅行の方ですか。プノンペンにようこそ」と見かけに反した優しい声。それがここで事業を営むOさんとの出会いだった。

 実は超限られた時間の中でのこの高速旅の数多い目的のひとつに、「アジアに自らの意思で飛び込み、逞しく生きる日本人の生々しい姿に触れる」という項目があった。まさに目の前のOさんはそれっぽい。到着していきなり会えるなんてなんて俺はラッキーなの☆と幸運を喜んだ。Oさんは「まあ遠いとこお越しいただきましたから、昼食でもいきましょ」と席を立った。断る理由は何も存在しない。腹が減っていた俺はさらに喜んだ。宿の2件ほど隣にある「青葉」という台湾料理屋に皆で入る。ベトナム美人とカンボジア人ホテルマネージャーも一緒だ。Oさんは慣れた調子で、友達らしい台湾人の主人に小気味よくオーダーしていく。主人はなぜか俺の女房の親父に瓜ふたつだった。カンボジアにはカンボジア人(クメール民族)というマジョリティの他に、隣国から流れてきたベトナム人、そしてこの主人のような中国人華僑がいる。とりわけアジアのほぼどの国にも生息する「華僑」のパワーには恐れ入る。ともかくどこへ行っても大好きな中国料理が食えるのはウレシイ限り。遠慮なく存分に食いながら、Oさんの話を聞くことにした。Oさんは47歳の愛知県生まれ。現在、日本からの精密機器のインポートと印刷業を営んでいる。その他に地雷除去のためのNGOの現地所長も兼務している。あとで書くことにするが、この国は遠くない昔に内戦という悲しい過去があり、 その名残でいまだに国土のあちこちに地雷が埋まっているのである。農作業中などにその地雷に触れ片足を失うような人が後を絶たないわけで、そういえば街には片足の人や義足らしい人々を見かけたのを思い出した。それを除去するのはキケンな仕事である。聞くとつい先日、有名なアジアノンフィクション作家の浜なつ子さんが取材に来て同じような話をしたばかりだという。後日日本で出版されたその本を読んでなおさらその動機などが理解できたが。Oさんはそんな忙しい毎日で、すでに10年以上カンボジアで生きている。22歳になる息子も自分の後を追ってこちらで仕事を手伝ってるという。話が深まっていくにつれ、「満員電車にゆられ、目標に追われ、残業に疲れる」という俺自身の日常とはまったく異なる世界が存在するのが理解できた。別れ際に、印刷屋さんでもあるOさんに、クメール語のなんちゃって名刺を発注する。翌日仕上げでできるということで、もう一度会うことができるのを喜んだ。最後まで謎のベトナム美人との関係はつっこむことができず、やや切ない。もっと切なかったのはドライバーのヒロミに昼飯をおごってやる約束を完全に忘れていたことだ。Oh my GOD ! ヒロミは台湾料理屋に出かけていく俺たちに目が点になりながらも、まだ宿の前でたたずんでいた。というわけで2度目のランチをするハメになった。

 昼飯を終えるとヒロミは今日と明日俺を車であちこちに案内させてほしいと言う。「お前空港の仕事はえーんか?」と聞くと自分は自営業の運転手だから好きにできるとの答え。クソ暑かったのでそんならとお抱え運転手にすることにした。
 アジアの街には大抵使い古された日本の昔の中古車(場合によっては産業廃棄物)が走ってるのはよく見かける風景である。ヒロミの車もサニーと書かれた日産車だったが、どうしてもそんなモデルが日本を走っていたことが思い出せないような旧式のタイプだ。ひょっとしたら適当につなぎ合わせて作られたものかも知れない。彼の車が何にもぶつからないことを願う。
 プノンペンの町は観光客的視点で見るとあまり見るべきものはない。ヒロミはおざなりに王宮やビクトリーモニュメントやワット・プノンという寺や街の東側を流れるトンレサップ川のほとりに連れて行ってくれたが、なんだかあっという間に終わってしまった。あえて面白かったものはといえば、モニュメントの南側にあったキッチュな遊園地と河畔に浮かぶ「ナーガ」というカジノ船、それに気が向いた時だけ列車が発着するという廃墟のようなプノンペン駅くらいだった。メコンバンクという銀行で上陸記念にUS50ドルで自分の銀行口座を開いた。それをきっかけにして訪問した国で足跡代わりに自分の銀行口座を開くというのもマストになってしまった。
 続いて街の南のはずれにある「トゥール・スレーン博物館」に行く。ここは昔高校として使われていたが、内戦時にポルポト派の兵士たちが一般市民を捕らえて幽閉し、最後はなんと2万人にものぼる罪なき人々をかたっぱしから虐殺したという悲しい場所なのである。真ん中の校庭を取り囲むようにかつての校舎であった建物がコの字型にならんでいる。足を踏み入れるといきなりひとつの部屋に骨組みだけになったベッドが置いてあった。壁の写真には同じベッドに人がくくりつけられてひどい拷問にあっている姿があった。よく見ると床にいまだに血液らしい大量のシミがこびりついている。次の建物にはレンガで造られた牢獄がいくつもならんでいた。そして順路をすすむと壁面に虐殺されていった人々のモノクロ写真が一面にかかっている。女性も小さい子供も無差別にいてなんだか正視できない。とどめは出口近くにディスプレイされていたカンボジアの地図で、なんとその地図はいくつもの頭蓋骨でできていた。歴史を刻みつけて2度と過ちを起こさないという点ではその博物館の存在は理解できたが、無意味に落ち込んでしまった。なんだか初日にしてひどく疲れたので夕方5時くらいにホテルに戻る。バンコクのS氏からは、夜中一人歩きするとホールドアップがあるという話を聞かされてたので、近所のスーパーマーケットで「アンコール」と「バイヨン」というご当地ビールだけ買い込み、部屋へ戻って早く寝ることにする。

 翌朝起きてホテルの向かいのPVOというベトナム飯屋で、フォーとチャーゾー(揚げ春巻き)を食う。なんだか美味くて意味もなく従業員のベトナム人ねーちゃんをカメラにおさめる。ホテルに戻るとヒロミがすでに待っていた。今日はもう夕方の便でバンコクに戻らなければならない。チェックアウトしていると、O氏がプリントし終わったクメール語の名刺を届けにやってきてくれた。お礼を言って受け取り、再会を約束する。空港に行く前に街の12Km南西にある「キリング・フィールド」へ行く。かつて同名の映画が日本でも演じられたが、ここは昨日行った博物館に囚われた人々が連れて行かれ、最終的に処刑された地である。地面には無数の穴が掘られ、まだ回収されてない人骨や衣服の切れ端などが見られた。横には大きな慰霊塔が建てられており、その内部には掘り起こされた人骨がすべて祭られているのだという。その時だまって俺の横を歩いていたヒロミが急に堰を切ったようにしゃべりだした。それは自分の両親にふりかかった悲劇であった。「うんうん」と頷き聞いてやる以外に何もできなかったが、そんなに昔のことではない時代に国民の実に1/3もの数が虐殺された事実が信じられずいまだ遠い物語のようだった。
 空港でヒロミと別れの固い握手をした。その時はもう一生会えないのだと思った。飛行機は夕暮れのポチェントン空港をバンコクに向かって飛び立った。

BANGKOK #2  30/Dec/2000
 
なんだかんだ言ってドンムアンでぐずぐずしていたので、2度目のバンコクの宿に転がり込んだのは夜の10時を過ぎていた。カンボジアとは隣国なのにこーも違うのは何故?と思うほどホッとする。今度の宿はスクムヴィット通りの北側にあるZenith Sukhunvit Innというまあまあのホテル。レセプションには可愛い系の女の子3人がいて「Merry Christmas!」と声をかけてくれる。ジャズの生演奏が流れるラウンジでしばしウエルカムドリンクを楽しむ。もう早く寝たい。なぜなら明日の早朝には今度はミャンマーへ出発しなければいけないからだ。俺は早くも「光速旅」のつらさを感じ始めた。しかしである、限られた時間を駆使し街の隅から隅までを感じ取るのが俺に課せられた義務ではなかったのか?俺は疲れた体に鞭打ち外へ飛び出した。道をはさんで向かい側には、グレースホテルという古びたホテルがあった。中をのぞくと人間の90%はほぼ中近東の方々で皆ヒゲをはやして大声で喚いている。なんだか人々からはスパイシーな香りが発射されていた。よし、今夜のテーマは中東だ!と決めホテルの横にアラブ人街があるのを発見すると、アル・フセインと書かれた金ぴかの趣味のいいレストランに飛び込んだ。なんだかよくわからないうちにシシカバブと小麦の丸いパンが出てきた。俺はカンボジアの疲れをとにかく癒そうとビールを注文したが、中近東の店にはアルコールなど置いておらず、劇甘のオレンジジュースで耐え忍ぶ。ヒゲ顔の店の主人は俺のテンションが下がったと見て取るや否や店の隅から水パイプを引っ張り出してきて、俺の前で実演会をやってくれた。笑わなければお前を帰さない・・・と主人が目で求めていたので、仕方なく泣きたい気持ちで笑う。あとは足を引きずるように宿に帰り、目覚まし時計のセットだけ忘れないようにしてから泥のように睡眠に落ちていった。

YANGON #1  31/Dec/2000
 
翌朝5時に起床して再びドンムアン空港へ向かう。今から反対側の隣国ミャンマーへと向かうのだ。この国は空港でのアライバルビザは取れないのであらかじめ日本でビザを取得していた。当時は大阪にもミャンマーの出先があったのだが、それはたまたま鶴見緑地という大阪の東のはずれの旅行会社がついでに引き受けていたというようなところで、家が近かったのでチャリンコで申請にいった。なんだか書類がたくさんあって、申請時には父親の名前まで書かなくてはならなかった。大きなお世話だと言いたかった。あと職業がマスコミだといろいろ大変みたいなので「印刷屋」ということにして申請した。ドキドキして結果を待ったがあっけないほど簡単にビザはおり、再度チャリンコで件の旅行会社にとりに言った。窓口のおねーちゃんが妙に可愛かったので、俺はご機嫌になってしまい、彼女にミャンマーの政治や経済や文化のことを尋ねたが、「あたし、そこへは行ったことないし、地球のどこにあるかも全然よくわからないんですぅ〜・・・・」という脱力するようなレスポンスが返ってきた。その後風の便りによると、その旅行会社はビザ申請の出先を取り消され、今では東京の大使館でしか申請できなくなってしまった。

 話をバンコクの早朝に戻そう・・・・。タクシーはガラガラのハイウエイを疾走し、またもやドンムアン空港である。8時40分発TG303便のゲートに向かう。いよいよ光速旅3ケ国目の謎の国ミャンマーへ突撃である。1時間ほどのフライトを経て機体は降下を始める。眼下にはだだっぴろい平原。そこにお椀を逆さまにしたようなというか、宇宙基地みたいというか、そんな感じの金ぴかの寺院がぼこぼこ建っている。あれが噂に聞くパゴダというものだと納得する。ほどなく303便は首都ヤンゴンのミンガラドン国際空港に着陸した。カンボジアでは旧宗主国フランスの影響が街のあちこちで見られたが、ここミャンマーはイギリスの統治時代はロンドンからの直行便が飛び、ヤンゴンはバンコクよりももっと栄えた都市であったらしい。しかし独立後、民主化に失敗し軍事独裁政権が勝手に国のトップに居座ってからは、以前の「ビルマ」・「ラングーン」という名を今の名前に変えてしまったという。俺は昔の呼び名のほうがノスタルジックでいいのにとつくづく思った。ともかく今は軍事政権の国である。秘密警察がいて国民の言動を監視したりしているという。俺は急に怖くなり飛行機で引き返したくなった。間もなく1台のバスがパッセンジャーを空港ビルに運ぶため、機の横につけられた。なんとなく囚人護送車というカンジがしないでもない。乗客はみな一様に無口だった。何故無口かというと、ミャンマー入国には厳しいイミグレーションの通過だけでなく、とっても理不尽な「強制両替」の儀式が待っているからである。


すんません。ここからはまだ工事中ですわ。


3) 見聞録 その弐
 《タイ-ベトナム-タイ−ミャンマー-タイ-マレーシア》 激動の巻



4) 見聞録 その参
 《台湾-スリランカ-ブルネイ-シンガポール-マレーシア》 渾身の巻



5) 見聞録 その四
 《ネパール-タイ-バングラデシュ-タイ-ベトナム》 衝撃の巻



6) 見聞録 その伍
 《韓国-香港-タイ-マレーシア》 驚愕の巻



7) 見聞録 その六

 《フィリピン-カンボジア-タイ-マレーシア》 怒涛の巻



8) 見聞録 番外編@
 《ああ釜山港》 哀愁の巻



9) 見聞録 番外編A
 《サクラメント-サンフランシスコ 先祖を尋ねて三千里》 慟哭の巻



10) 見聞録 番外編B
 《インド-チェンナイ・バンガロール珍道中》 唖然の巻




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